Apr 19, 2009

若返りの秘薬があれば

若返りの秘薬もあればと、年配の人は誰もが望むのではないか。私もその一人である。若いときのようにシワやシミのない顔に戻ったみたい。つやつやした髪にしたい。疲れない身体になって思い切り走りたい。悲しいことに老いるということは、多くを失っていくのかもしれない。しかし、若返りのようにそれを遅らせることができるかもしれない。
アンチエイジングは、アンチエイジング医学とも呼ばれます。文字通り、老化することのリスクを軽減する医療になりますが、若々しくていますという人の努力を指すこともあります。アンチエイジングは、誰もが避けられない老化に抵抗するのではなく、年を、非常に若々しさを失わない姿勢だと思います。様々なサプリメントもあるが、若々しくしているという姿勢が重要だと思います。
【舞台はここに】

 ■白砂青松 未知の表現へ疾駆

 黒松の巨木がうねっているのは海風のせいだろうか。白砂の地面には、枝を離れた松葉が散り敷かれている。阪神電鉄芦屋駅の南から、芦屋川沿いに海の方まで細く長く続く「芦屋公園」(兵庫県芦屋市)。

 今、風情ある松林のプロムナードとして愛されるこの公園を“聖地”と呼ぶ人があることを市民はどのくらい知っているだろう。

 その別名の由来は昭和30年の夏にさかのぼる。暑さがピークの芦屋公園に、派手ないでたちをした若い男女の姿があった。うち1人の男は、10本の赤い丸太を円錐形に組んだ中に入り込み、斧で丸太に切りつけた。また別の男は透明のポリエチレンシートを氷嚢(ひょうのう)形にし、中に赤い色水を入れて松の木に吊す。

 公園内には、ほかに四角い大きな光沢のあるピンクの布が地面すれすれに張られていたり、無数の穴を生々しく開けたトタン板があったりと、造形物が数十点配されていた。突如現れた従来考えられないような芸術を、芦屋の浜の海水浴客が水着姿で楽しんだりしたという。

 これこそ、戦後日本を代表する前衛美術グループ「具体美術協会」の実質的な初展覧会「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」だったのである。

 具体美術協会は画家・吉原治良をリーダーに昭和29年、阪神間の若手現代美術家らで結成。「人のまねをするな」「誰もやっていないことをやれ」という吉原のモットーのもと、会員全員が未知の表現へ疾駆した。美術展の野外開催など考えられないころ、吉原は同市の公募展で落選した絵画が屋外に立ててあるのを目にし、“野外展”を発案したという。

 「松が点在する中でも、絶対目立つものをつくりたかった」と元会員の美術作家、山崎つる子さん。菱形に切ったブリキ板を何枚もつなぎ、全面に釘を打った高さ3メートルほどのポールの上から垂らす造形作品を出品した。風が吹くとウヮンウヮンとうなり音も発し、題名通りまさに『危険』。

 「(作家らが)変なことを考えつき、それをまともにやっているのが、見る人には面白かったでしょう。みんな変なものを作って、若さを発散している感じでした」

 絵画でもない、彫刻でもない、美術の概念を破る野外実験展は高く評価され、翌年夏にも「野外具体美術展」が芦屋公園で開催される。白砂青松に繰り広げた作品を跳躍台にして、具体美術協会と会員たちは国際的に活動を広げ、前衛美術の先頭を走り抜けた。

 吉原が亡くなった昭和47年、具体美術協会は解散、18年の活動を終える。1980年代半ばからは欧州各地で具体展が開かれるが、93年のベネチアビエンナーレでは芦屋公園での野外展が再現された。それはイタリア側からの要請をうけてのものだったという。

 創造の力が噴出するような具体の作品を見守った芦屋公園。黒松が林立する空間には、若い作家の熱気が今も感じられる気がした。(坂下芳樹)

【メモ】具体美術協会

 画家・吉原治良と、彼に制作面で指導を受けていた若手芸術家らで昭和29年に結成。当初会員は17人だった。野外展や舞台のほか、展示施設「グタイピナコテカ」(大阪・中之島)、美術雑誌「具体」など独自媒体でも作品を発表した。精神の自由から生まれる新しい表現を追求、激しい表現行為なども交え、戦後の前衛芸術を切りひらき、国際的に注目された。

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 【クライストチャーチ=田中充】ニュージーランド大地震で、高校留学中に被災し、知人宅で避難生活を送っている奈良市出身の林奈々美さん(16)が自身のホームページ(HP)で被災の状況を伝えるとともに、日本での義援金活動を呼びかけている。「自分にできることをやる」という林さんの思いを受け、友人らを中心に協力の輪が広がっている。

 「将来、英語を生かした仕事に就きたい」という林さんは昨年4月から現地へ語学留学し、今年からクライストチャーチにあるリンカーン高校に通う。

 学校は被害の大きかった市街地から離れているため、被災時の校内もやや大きな揺れと数分間の停電にとどまった。しかしその後、建物が倒壊した市街地の画像などをインターネットで目にした。「信じられない気持ちだった」と振り返る。

 帰宅用のスクールバスも迎えに来られず、別のバスで市街地に近いホームステイ先に戻ろうとしたが、途中で通行不能に。次第にこみ上げる不安を募らせながら30分以上も歩いて帰った。現在は留学先を仲介してくれた日本人の親族の自宅に身を寄せる。

 自身は無事だったが、年代の近い富山市立富山外国語専門学校生らが倒壊したビルに閉じ込められ、安否不明となっていることを知り、「とてもショック」だった。「自分にできることは何か」を考えるうち、災害発生時に日本のコンビニなどに置かれていた義援金箱を思い出した。

 「広く呼びかければ、募金してくれるのではないか」。そう期待して、2月25日、ふだんは身の回りの出来事を発信していた自身のHPで、日本の友人らに向けて「協力のお願い」と題した文章をつづった。

 「家も崩れて住むところがなくて公園で寝泊まりしている人も…。平和できれいな町に戻ってほしいなと思っています」と義援金への協力を訴えた。

 HPでは募金先の口座などを紹介しているわけではないが、直後から「口座振り込みしたよ」「マクド(ナルド)で500円、ローソンで500円、セブン−イレブンで300円を募金しました」などという報告がHPに届き始めた。HPを見た奈良の友人らもそれぞれのHPでアドレスを紹介するなど、活動を広めてくれている。

 「被災地の現状を知ってもらうことで、少しでも協力の輪が広がってくれれば」と林さん。意外な結果に!?廃車戦略HPのアドレスはhttp://93.xmbs.jp/nanaxbaske/

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